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宮古港の漁業と交易

更新日: 2020年7月1日

宮古湾は、北上山地と重茂半島による断崖と岩場、そして閉伊川と津軽石川河口付近は遠浅の海岸となっています。このため、多様な海産物の宝庫でした。寛政9年(1797)の調べ(『邦内郷村志』盛岡市中央公民館所蔵)によると、当時の産物は、鮭塩引(さけしおびき)・鯛(たい)・鮃(ひらめ)・鱸(すずき)・鱒(ます)・鰯(いわし)・赤魚(あかうお)・鰹(かつお)・鰹節(かつおぶし)・蛸(たこ)・鮑(あわび)・鰈(かれい)・鯣(するめ)・唐貝(からげえ)・魚油(ぎょゆ)・〆粕(しめかす)・塩などが記録されています。また、昆布を乾かして砕いた「布の粉」(めのこ)は庶民の常食で、飢餓の多い南部領では他領への積出しを禁止した貴重な食料でした。

江戸時代中期には、鰯の地引網が始まり「ホシカ」と言って肥料にされ、魚油も他領に出されていました。文政年間(1818-29)には山田町田の浜出身の田代角左衛門が、田代式鮪大網を開発し鬼形(追切一丁目)で建網漁業を始めました。建網は漁獲高を飛躍的に増大させました。

こうした海産物を商品として、江戸や大坂と交易を行ったのが、廻船問屋(かいせんどんや)でした。
 江戸時代中期に活躍した美濃屋(みのや)は本町に店を構え、扱う品物は木綿・古着・紙・茶・薬・筆など多岐にわたり、今で言うデパートでした。

干物・〆粕・鮭・塩鰹などの海産物を江戸に出し、品物の多くは江戸から買い入れていました。また、干鮑(ほしあわび)・煎海鼠(いりこ)などは長崎俵物として輸出される、藩の大事な交易品でした。
 荷物を送る場合は相手に対して送り状を作成し、船に荷物を積んで当時の税関である「拾分の一役所(じょうぶんのいちやくしょ)」で点検を受け、税金を支払います。こうして送り出された荷物は、那珂湊(なかみなと)(現茨城県)や銚子(ちょうし)(現千葉県)に着くと、地元商人に売りさばかれ、その報告が美濃屋に届きます。
1度の航海で100両を超える取り引きが行われることも珍しくなく、三陸沿岸の豊富な海産物と海運の発達が「港町宮古」発展の原動力になっていたことがうかがえます。
  

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