宮古の歴史シリーズ 港編

更新日:2026年02月05日

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港町「宮古」?

宮古市といえば海辺に面し海と関わりが深いですが、県内には久慈市や釜石市、大船渡市など海に面し海と関わりの深い町もあります。県内の他の町とはどこが似ていて、どこが違うのか?

宮古と港について、Q&A形式で見ていきましょう!

Q. 宮古の海はどんな海?

宮古市は青森県・岩手県・宮城県にまたがる三陸沿岸という地域のほぼ中央に位置しています。三陸沿岸は北の冷たい親潮と南の暖かい黒潮がちょうど交わる地点で、世界でも有数の漁場となっています。親潮にはたくさんの栄養が含まれており、黒潮は南の暖かい水域から流れてきます。植物プランクトンの成長にはたくさんの栄養と暖かい水温が必要であり、三陸沿岸はプランクトンの成長に適した場所となっています。また、プランクトンの数が多いことから、プランクトンを食べる小魚が集まり、小魚を狙う大型魚も増えるため、古くから漁業が盛んな地域でした。

親潮

三陸沿岸の海流(気象庁HPより)

Q. 一番古い漁業は?

宮古で一番古い漁業の痕跡は今から約6,000年前の縄文時代前期にまでさかのぼります。国指定史跡となっている崎山貝塚からは、イワシやタイ、マグロなどの魚の骨や、クジラやオットセイなどの海獣の骨が出土しています。また、それらをつかまえる釣針や銛頭も見つかっており、何千年も昔から海の恵みを得ていたことが分かります。また、岩手県の沿岸部では約60の貝塚が見つかっていますが、85%が宮古より南に位置しています。また、規模の大きい貝塚は縄文時代中期以降が多く、縄文時代前期の貝塚はとても珍しいです。

釣針

銛頭と釣針(崎山貝塚:縄文時代)

Q. 昆布が特産品だった?

奈良時代に書かれた『続日本紀 』の霊亀元(715)年10月29日条には、当時の宮古近辺と考えられる「閉村(へむら)」の記載があり、現在の仙台市にあった国府(地方の役所)へ昆布を献上したとされています。また、津軽石地区の津軽石大森遺跡からは、平安時代の地層から青銅製の錘(おもり)が出土しています。これが海産物の重さを計る秤(はかり)の錘(おもり)だったとすると、海産物を用い遠方との交易をしていた可能性があります。

青銅製錘

青銅製錘(津軽石大森遺跡:平安時代)

Q. 港町になったのは?

宮古が正式に港町となったのは、江戸時代になってからと言われています。江戸時代になり盛岡藩(南部藩)から、幕府のあった江戸との交易を行う港として宮古港が選ばれます。宮古港の開港のため、南部家のお殿様が直接宮古に来て、宮古の町割りを指示したとも言われています。港町となってからは、江戸との交易で来た商人や船員が泊まる宿屋や遊郭が港沿いの鍬ケ崎に建てられ、江戸から来た商品を売る質屋や酒屋(旧東屋)などが宮古町の中心部につくられました。また、江戸からの品物や宮古の海産物を盛岡へ運ぶための街道も整備され、五十集衆(いさばしゅう)と呼ばれる業者が活躍しました。

鍬ケ崎絵図

鍬ケ崎の絵図(江戸時代:宮古市蔵)

Q. 県内の他の港は?

宮古以外にも、大槌町の吉里吉里(前川)善兵衛は、廻船問屋として江戸との交易で財を成し、盛岡藩への貸付なども行っていました。秋に川を遡上してくる鮭を塩漬けにして保存する新巻き鮭も、大槌町が発祥とされ江戸へと運ばれたとされています。

野田村では海水の汲みやすい地形と大量の砂鉄を活かし、鉄窯による塩づくりが行われ、盛岡へ塩を運ぶ塩の道が整備されました。山田町や大船渡市ではイルカ漁に関する記録も残っており、沿岸各地でその土地の特性を活かした産業が発達していきました。

Q. 日本初の西洋式海戦が宮古でおきた?

明治2(1869)年3月25日に日本で初めての西洋式海戦である通称「宮古港海戦」がおきました。幕末から明治初期にかけて、全国を舞台に戊辰戦争が勃発しました。その最終局面で旧幕府軍は箱舘(函館)を拠点としていたため、旧幕府軍との開戦に向け新政府軍の軍艦が東京から太平洋を北上していました。当時の宮古港は箱舘に向かう前の比較的大きな漁港で、深い水深と豊富な物資そして十分な宿屋があり、良好な補給地でした。

宮古港へ物資の補給のため停泊していた新政府軍の軍艦を、旧幕府軍の軍艦が奇襲した戦いを「宮古港海戦」と呼びます。戦いは30分程度で終わり、旧幕府軍が敗戦し北海道へ戻りました。この戦いには旧幕府軍に新選組の土方歳三が、新政府軍には後に日本海軍の総司令官を務めた東郷平八郎が参加していました。

宮古港海戦

宮古港海戦の図(宮古ホテル沢田屋蔵)

Q. 宮古が鮭の町になったのは?

平成19年に「サーモンランド」を宣言するなど、宮古は鮭漁が盛んな地域でした。特に鮭漁に力を入れている宮古の津軽石地区では、江戸時代に鮭漁が藩から正式に認められ、その制度化が進められてきました。また、江戸時代後期には津軽石の盛合家が鮭漁と江戸との廻船業で成功し、津軽石の文化的な発展にも貢献しています。

江戸時代以降、他の沿岸地域でも鮭業は行われていましたが、明治30年代に県内でいち早く宮古が鮭の人工ふ化に着手したことで、稚魚の放流による漁獲高が増加し鮭の町へと発展していきました。

盛合家

盛合家住宅主屋(国登録有形文化財)

Q. 宮古港はどのように整備された?

船舶の大型化や物資の増加に対応するため明治13(1880)年に宮古港の最初の埋め立てが行われました。その後も明治45(1912)年、大正6(1917)年など複数回にわたって埋め立て工事が行われ、近代的な港として整備されます。この時期に釜石港では1万トンの船舶が横付けできる岸壁がつくられています。

戦後も宮古港の整備は進み、昭和30年代ごろには300隻以上のサンマ船が集結する漁港となります。また、昭和39(1964)年に魚市場の横に1万トンの船舶が接岸可能になり、昭和44(1969)年には藤原ふ頭に4万トン級の船舶が接岸可能になりました。

漁船でにぎわう宮古港(昭和27年)

漁船でにぎわう宮古港(昭和27年)

現在の宮古港は?

現在の宮古港では、従来の定置網による漁業に加えワカメやトラウトサーモンなどの養殖のほか、遊覧船「うみねこ丸」やクルーズ船の誘致などによる観光を行っています。

岩手県では宮古、釜石、大船渡の主要港に役割を設け、宮古はクルーズ船やフェリーなどの観光関連を、釜石と大船渡は国際フィーダー航路を活用した貨物の物流の拠点・強化を担っています。

県内では宮古、大船渡、釜石などの水揚げ量が多く、大槌や山田などでもトラウトサーモンやホタテなどの養殖が行われています。宮古ではワカメや昆布の養殖が盛んでアワビの漁獲量が多く、マグロなどの回遊魚も多く水揚げされています。

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