明治の宮古湾埋め立て
ページID : 1692
明治維新後も三陸沿岸随一と言われた宮古港は、船舶の大型化や物資の増加に対応するため、閉伊川左岸の埋立てが計画されました。
明治13年(1880)5月、篠民三(しのたみぞう)ほか地元有志により、宮古湾の埋立て工事が着工されました。宮古橋下から現在の漁協ビル(当時は宮古測候所)までを埋立て、新川町に運河を通し、築地に船着場を設けるものでした。
北上山地に隔てられた宮古にとって、港はまさに玄関口でした。明治の中頃から東京湾汽船株式会社が貨物船・客船を定期に運行し、大いに利用されていましたが、その専横ぶりは目に余るものがありました。そこで地元三陸沿岸のおもな荷主が立ち上がり、地元資本による三陸汽船が誕生したのです。
明治41年から就航した三陸汽船は、鍬ヶ崎港から久慈・塩釜間に定期航路が走り、東京・函館に向かう船もありました。
この記事に関するお問い合わせ先
商工労働観光部 港湾課
〒027-8501
岩手県宮古市宮町一丁目1-30
電話番号:0193‐62‐2111
更新日:2025年03月28日