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寄生木記念館 小説「寄生木」のあらすじ (2/2)

更新日: 2024年1月11日

あらすじ

良平は陸中の東海岸、宮古から一里たらずの山口村に篠原良助の次男として生れた。
父は気性の激しい人で、村長時代に村の大家と衝突して公金横領で訴えられ、前後六年間監獄に入ったが、ついに無罪となる。
父が仙台の監獄に居る頃、良平は家出をして仙台へ行き、不思議な縁で第二師団長大木将軍の学僕となりその世話で中央幼年学校に優等第三席で入学した。 大木将軍の意を受けた篠原中佐が、後見人となり世話しているうちに、中佐の娘夏子(十四才)を許嫁とする。
良平(十八才)は色々な事情で怠けて成績不振となり、許婚を取り消される。 しかし、将軍から支給される学費受取のため、月に一回篠原家に行くので交際は続いていた。
良平は幼年学校から士官学校を卒業し、旭川二七連隊に帰隊、少尉として日露戦争に出征する。奉天会戦などで戦功があり、良平は中尉に昇進する。
明治三九年、凱旋後の五月に篠原大佐と夏子との結婚を願うが、断られる。
金鵄勲章を賜って、再び結婚を申し込むが、許しが出なかった。
四〇年二月意を決して夏子の生花の師匠宅で夏子と会い、良平が陸軍大学に入学したら結婚する約束をし、夏子の両親も黙認する。東京と旭川を結ぶ愛の手紙が何度も何度も津軽海峡を往復した。
同年十一月、良平は陸軍大学予備試験に合格するが、若年で隊付勤務不足を理由に入学延期となった。
夏子との約束に反して入学できないから、この結婚をあきらめてくれと断腸の思いで書き送る。 夏子から条理をつくした慰めと励ましの手紙が来たが、良平は頑固にとりあわず、軍隊に休職願を出して上京した。 夏子の叔父の努力でやっと話がまとまりかけたが、大木将軍に「良平は男らしくない。そんな結婚式には出席しない」と言われる。 健次郎婦人は心配のあまり篠原家を訪問した。夏子からしばしば来た手紙を良平はなぜか破り捨てる。
明治四一年五月良平は病気になつて郷里へ帰って静養していた。大木将軍から夏子との結婚は差支えなしと許しがあつた。 明治四一年九月、良平は「身体疲労はなはだしく杖によりて立ち、数歩歩くも困難。篠原家からは手紙も来ない」との手紙を健次郎に送つた。
九月二〇日昼過ぎ、良平は家人を遠ざけ夏子へ巻紙の遺書を残し、ピストルで自らの命を絶った。 駆け寄った姉お新に「姉さん、巻紙は大丈夫だね、巻紙は…」、これが最後の言葉であつた。 その日夏子が来て位牌に手を合わせて拝む姿が、お新には幻のように見えたという。
数え年、良平二八歳、夏子二四歳になつていた。

夏子から良平への手紙

夏子から良平への手紙(明治四十年十月十三日付)
いそぎましたのでひどい書よふ、おはんじ下さい。
くだらぬ事書ちらしましたから、どなたもいらっしやらない虞で御覧下さい。
御演習地よりして御ふみ給わらんとは思ひかけざりしに、はからずも御玉章に接し一しほ嬉しく、くり返し拝し参らせ候。かねてより演習は御大抵にて、なき事とは承知致し居しも、くわしきこの度の初手紙にて実に御推量申上候。
ことに雨天がちと如何ばかり御難儀ならん。ただいる私たちも雨降は之たへぬに、さればにや。御察し参らせとてか。
(後略)
良平は大木将軍の学僕となり、自分の生を寄生木に例えて、原作ノートの表紙に「寄生木」 と記した。

やどりぎ【宿木・寄生木】

  1. 他の樹木に寄生した木。
  2. ヤドリギ科の常緑低木。高さ1m内外。落葉広葉樹に寄生し、冬には目立つ。叉状の茎の上端に細長い濃緑の二葉をつける。雌雄異株。早春、淡黄色の小さい単性花を開き、花後球形で緑黄色の実を結ぶ。果肉は強くねばり、鳥によって他の枝に運ばれる。

(『広辞苑第五版』より)

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