藩船虎丸と御水主(おかこ)
「水夫」「水主」と書いて「かこ」と読み、船乗りを意味しますが、「御水主(おかこ)」は南部藩のお抱えの船乗りを指します。南部領主の御座船は6隻あり、宮古湊には宮古丸と虎丸が配備されました。その乗組員が御水主たちで、宮古代官所に配属されていました。
藩船建造は正保3年(1646)に記録(『盛岡藩雑書』)があり、慶安3年(1650)には宮古と八戸で300石船を建造しています。その後遭難や修理を重ねますが、この御水主文書が書き始められた安永年間(1772-1780)には、すでに藩船はなくなっていました。
その後何度か藩船建造が計画されたり、御水主からも船の操船訓練のための造船願いが提出されますが、実現はされませんでした。その後、安政2年(1855)虎丸は江戸で建造されます。これは北海道警衛のためで江戸から北海道に向かい、安政4年(1857)函館勤番(きんばん)の者を乗せ下北の大畑を出帆しますが、濃霧のため蛇浦に乗り上げ破船してしまいます。
藩船でありながら、藩主を乗せて航海に出た記録もなく、あまり活躍せずに宮古川(閉伊川)に船囲いされるまま朽ちはてる運命にあった虎丸と宮古丸。船乗りでありながら藩船に乗ることのない御水主たちは、宮古代官所の同心(どうしん)としてわずかに生活をつないでいました。宮古代官所の文書による記録は残されておらず、この御水主たちの残した『御水主文書』は、当時の宮古代官所の動きを知ることができる貴重な資料です。
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更新日:2025年03月28日