三陸海岸の恵みと港町宮古
宮古港と街道による地域の発展
ストーリーの構成
(1)港町宮古と商人の活躍
(2)五十集(いさば)の道と牧庵鞭牛
(3)宮古港海戦と港湾整備
(4)黒森神楽と海の信仰
(1)港町宮古と商人の活躍
江戸時代、宮古港は盛岡藩の主要港となり、江戸と松前(北海道)を結ぶ航路の絶好の寄港地となり、南部家領内随一の繁華地「南部の宮古港」として全国に知られました。
岩手県は世界三大漁場とも言われる三陸沖をひかえ、水産界の先進地域でした。1890(明治23)年の内国勧業博覧会に、漁法や漁具を図示した「漁具類聚」が出品されました。

宮古港
宮古湾は江戸が大都市となるにつれ、江戸商人との海産物の取り引きが盛んになり、多くの廻船問屋が宮古町に出店しました。本町の幾久屋や磯鶏の蔵屋など、商家は廻船問屋と質屋(金融業)を兼業して大店(おおだな)へと成長し、大量の古文書が残されています。盛合家は、津軽石川の鮭留漁と廻船問屋、造酒屋、質屋を兼業し、1796(寛政9)年の藩主巡見の際に調えられた家屋と庭園が当時のまま残されています。
盛合家住宅主屋
江戸後期に成長した東屋は、明治以後も大店として宮古湾埋め立てなどの社会資本整備に貢献し、一族が当地方の発展を支える存在でした。1905(明治38)年建築の店舗兼主屋と幕末期の酒蔵、質蔵が残されており、往時の繁栄を物語っています。
旧東屋酒造店主屋
(2)五十集(いさば)の道と牧庵鞭牛
宮古街道は、城下盛岡と三陸海岸の主要港である宮古を結び、海産物や塩を盛岡城下に運ぶ「五十集の道」として重要な街道でした。盛岡藩は、1642(寛永18)年に閉伊地方の里程を42丁で1里と定め、七里詰めの塚を整備しました。この時の塚が「早坂一里塚」です。
宮古街道は、藩の御用荷物を運ぶ伝馬、夫伝馬のほかに、海産物や穀物をウマの背につけて運ぶ「だんこづけ」が通いました。街道筋には難所が多く、川井明神には海産物を運ぶ五十集衆が建立した「馬頭観音塔」があります。また、街道の分かれ道には行き先が刻まれた追分碑(道標)も立てられました。
牧庵鞭牛は、宮古市和井内清水に生まれ、釜石市橋野の林宗寺の住職(六世)となり、引退後に閉伊地方の道路開削にその半生を捧げました。当時の道や橋の工事は、近隣から多くの人が労働力を提供するものでした。工事が終わると供養碑が建立され、牧庵鞭牛の道路改修を示す15基の道供養碑が残されています。
鞭牛道供養碑
(3)宮古港海戦と港湾整備
明治維新の戊辰戦争では、1869(明治2)年5月に宮古港海戦が勃発しました。旧幕府軍と新政府軍の両軍艦隊が箱館(現在の函館)に渡航する際に宮古港に寄港しており、重要な寄港地である宮古港が海戦の舞台となったのは必然でした。宮古港海戦の戦史は日本人による洋式海戦のさきがけとして顕彰され、1917(大正6)年に宮古港戦蹟碑が建立されています。
明治維新後には、船舶の大型化や物資の増加に対応するため、港湾の埋め立てに着手しました。1882(明治15)年には閉伊川河口の埋め立てと光岸地の切通し開削によって、宮古町と鍬ヶ崎町が結ばれ港町宮古発展の礎が築かれました。大正時代には、宮古港である鍬ヶ崎を埋め立て、三陸汽船が就航して、東京・函館と結びました。
昭和になると国の第二種重要港湾に指定され、1937(昭和12)年に出崎ふ頭が完成しました。田老鉱山とラサ工業小山田精錬所が、鉄索と鉄道によって出崎ふ頭で結ばれ、田老と宮古の基幹産業となります。北上山地の豊富な森林資源は、宮古港から木材として移出されました。戦後もサンマやサケ・マス漁業の基地として賑わい、水産業は町の経済を支え発展し続けます。昭和30年代のサンマの出漁解禁には、全国から300隻以上のサンマ船が宮古港に集結する盛況ぶりでした。
(4)黒森神楽と海の信仰
江戸時代になって、宮古浦・鍬ヶ崎浦は廻船問屋など大店や蔵、旅籠、船宿、料亭が軒を並べました。これに伴って大漁や海上安全を祈願する神社の祭りも賑わっていきました。鍬ヶ崎熊野神社などの例祭では、神輿が漁船に乗って湾内を回る海上渡御(曳き船)が行われ、船上では神楽の恵比寿舞が奉納されます。
黒森山中腹に鎮座する黒森神社は、大漁成就・海上安全をかなえる神社として宮古湾内の漁業者や商家の信仰を集めました。「黒森神楽」は、黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、旧盛岡藩の沿岸集落を廻る巡行を今なお継続している貴重な神楽集団です。
黒森神社本殿
この記事に関するお問い合わせ先
教育委員会 文化課
〒027-0097
岩手県宮古市崎山1-16-1
電話番号:0193‐65-7526




更新日:2025年12月26日