旧幕府軍の夢を賭けた奇襲劇土方歳三と東郷平八郎が戦った、宮古の海
明治元年8月19日、榎本艦隊は北へ向けて出港した
1867年、将軍徳川慶喜による大政奉還に続いて明治天皇の王政復古宣言がなされ、日本は近代国家へ生まれ変わろうとしていました。しかし旧幕府軍側勢力の抵抗も強く、1868年、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、各地で旧幕府軍と官軍とが衝突。この一連の戦いが、戊辰の役と呼ばれるものです。戊辰の役は1869年5月の函館(当時は箱館)五稜郭の落城で、旧幕府軍の敗北に終わるわけですが、この「箱館戦争」の勝敗の鍵を握る戦いが、ここ宮古港沖で繰り広げられたのです。
箱館戦争は、新政府に反対する旧幕府の脱走軍が、榎本武揚をリーダーとして五稜郭に臨時政府を樹立し、新政府に対抗した戦いでした。1868年8月19日に8隻の船団で品川沖を出港した榎本艦隊には新選組の土方歳三も含まれており、総数は2,000名を超えていたといいます。一方、新政府軍には後の日露戦争で連合艦隊司令長官として活躍した若き日の東郷平八郎が参戦していました。
途中松島、宮古などに寄港し、艦隊が蝦夷地に到着したのは10月20日のこと。土方らは隊を率いて箱館に進軍、25日には函館の五稜郭を手中にしました。
この後、榎本軍は松前、江差などを次々に占領。12月には蝦夷地全土(実際には全島の西南部)を手中におさめたとして、「蝦夷政権」を樹立しました。その政府人事が選挙によって決定されたことから、これを「蝦夷共和国」と呼ぶこともあります。
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榎本艦隊品川出航之図 |
敵艦の脇腹めがけ、決死のアボルタージュ作戦
さて、年が明けて3月。蝦夷動乱の平定作戦は春にと見定めていた新政府軍が、動き始めました。軍艦4隻、運送船4隻の船団は16日から22日にかけて宮古に入港します。一方の蝦夷政権側、榎本艦隊は、長い航海と蝦夷地占領作戦で戦力を大幅に減退させていました。このまま新政府軍の侵攻を待っていても勝敗は明らか。そこで彼らは一か八かの奇襲作戦を決意します。それは、宮古港に停泊する新政府軍の艦隊を奇襲し、軍艦を奪おうというものでした。
3月20日、旧幕軍は荒井郁之助を総司令官に、残っていた「回天」「蟠龍」「高雄」という3隻の艦を連ねて南下しましたが、烈風で蟠龍を失い、高雄も機関の故障に見舞われてしまいます。そこで荒井は大胆にも、回天一隻でも敵艦奪取を決行するのです。
25日末明。回天は目的の軍艦「甲鉄」にそろそろと近づいていきます。そして、接舷命令。「アボルタージュ!」
回天の舳先が甲鉄の脇腹に乗り上げ、兵士が甲鉄の甲板に飛び降りて戦います。けれどもやがて甲鉄側も猛反撃を開始。1分間に180発連射の速射砲「ガットリング機関銃」が火を吹き、旧幕府の兵士は次々と倒れていきました。
わずか30分あまりの戦いで、多数の死傷者を出し、旧幕軍の作戦は失敗に終わり、退却。箱館戦争の雌雄はここに決したと言えるでしょう。この後、5月18日に五稜郭陥落。1年5ヶ月にわたる戊辰の役に終止符が打たれ、日本全土が明治政府の統制下に入ったのです。
江戸を離れ、遠く蝦夷の地に独立国を建設しようとした旧幕臣たちの夢物語は、宮古の海に砕け散りました。その壮絶な戦いをしのんで、浄土ヶ浜のお台場展望台入口に「宮古港海戦記念碑」が、また湾内を一望できる臼木山には「宮古港海戦解説碑」が建てられています。
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宮古港海戦記念碑 浄土ヶ浜お台場展望台入口 (浄土ヶ浜第1駐車場から徒歩1分)
| 宮古港海戦解説碑 臼木山 (浄土ヶ浜第3駐車場から徒歩5分) |